みきほ氏ブログ

川崎在住、トリリンガル。日本にくる外国人観光客事情と対応術、インドネシア・マレーシアまわりのことを中心に書いています

夢かうつつか

電報 (アジアの現代文学―インドネシア)

電報 (アジアの現代文学―インドネシア)

授業で私が発表した本です。1972年にインドネシアで発行された本。

渇き (アジアの現代文学―インドネシア)

渇き (アジアの現代文学―インドネシア)


同じ時期にこの本も出版されました。


「電報」の方は主人公の語りで描かれているのだけれども、主人公が精神を病んでいる設定で、主人公の妄想、空想、回想らが現実と織り交ぜられて語られている。はじめの方はどれが現実でどれが主人公の頭の中なのかがわかるけれども、後半あたりからどんどん現実と空想の区別がつかなくなってくる。主人公も区別ついてないと思う。いや主人公は最初から区別をあまり付けていないと思う。

そういう不安定な主人公の状況から、なんとなくさりげない形でスハルト開発独裁の闇の部分に触れられたり、人間と宗教のあり方だったりしきたりと人間のあるべき姿勢だったりそういうことを示している。

「渇き」のほうは2年前に読んだ本だけれども、こちらも主人公が激しく獰猛でどことなく狂った感じがした。

スハルトが政権を握ってからというものの、軍隊の力が背後にあったため、政府にとってよくないものを書いたジャーナリストや作家、そういうことを話そうとする説教師はことごとく『消されて』いったそうな。誰も言いたい事が言えないし、スカルノからスハルトに権力がうつったときのように、何が正しいのか何が悪いのかまったくわからないため、誰も言いたい事が言えない。そういう空気がインドネシア中を充たしていた。

そういう背景で、正常じゃないかんじのする主人公が出てくる小説が発行されて(日本語に翻訳されるってことは)それなりに売れた。ソレが70年代のインドネシア社会。



この発表に控えて私はこの本を3回くらい読んだのだけれども、その反動というか副作用というか、あまりありがたくないものが今になって私を襲っている。
昔よく考えた事なのだけど、「この私が生きている世界は全部幻なんじゃないか」「のび太じゃないけどこれ夢オチとか?」といった妙な不安のようなものを最近また抱くようになった。
しかもこういうのって証明しようがないもんね。
うーんへんに不安定。


昔自動車学校に通っていた頃第一段階でなかなか90点を突破することができなくて、「もしかして自分はIQ50くらいしかなくって、大学に通っているとかこういうの全部妄想なんじゃないか」と不安になったりしたものだ。

以下私のレジュメ(長いしけっこう誤字がある)

プトゥ・ウィジャヤ 著「電報」

主な登場人物
「ぼく」...ある雑誌の編集記者をやっている。バリ出身。精神を病んでいる。
ロサ...「ぼく」の空想の中の恋人。
ヌルマ...「ぼく」の現実世界の恋人?
シンタ...「ぼく」の養子、10歳。賢い。
スリ...シンタの母親で「ぼく」の姪。「ぼく」が憎む相手。
ゼン..「ぼく」の友人。ゼンの家を「ぼく」は来客として勝手に寝る事もある。
宗教欄担当の友人...「ぼく」と同じ編集部に勤める。普段は宗教の話を300人もの前で話し尊敬されるような人であるが、夜はプレイボーイ(?)

 この本は全体を通して「ぼく」の夢想/回想部分と現実が織り交ぜられ、どちらだか区別がつかないような書き方をされている。
 舞台は1973-74年のジャカルタ。3ヶ月後には妻となり夫となる「ぼく」とロサは、結婚する事でお互いが変わってしまうかしまわないか、恋人同士のままでいるほうがいいのではないか、結婚するとこうなる、結婚とはこういうものだという話がで、恋人のロサと「ぼく」が、3000回目のデートをする夢想中に、10歳になる養女のシンタが後ろから服の袖をひっぱり現実世界に戻る。シンタと「ぼく」が帰った後にデンパサールから打たれた電報を受け取った。腹違いの兄から打たれた、身内に起こった悪い知らせが書かれているのだと「ぼく」は思い込み、封を切る前に兄宛に手紙を何通も違った内容で書いたり、もし母親が亡くなったならばどういう厄介なことが起きるのか不安に駆られ、尋常ではなかった。もともと「ぼく」の家では手紙や電報は禍いの象徴とされていた。シンタが心配して電報の内容を聞くと、母の訃報であるにも拘らず彼女の伯父がジャカルタに来るという旨だったと嘘をついた。その夜シンタが眠りについてから、「ぼく」はヌルマに別れを告げに「ヌルマの所」へ赴いた。ヌルマと「結婚しよう」といいながらも別れを意識し、自分に養女が居る事や自分の「責任に縛られたくない」と言った考えを告白し、2000ルピアを渡してヌルマと別れる。ヌルマとの会合の前後で、宗教欄担当の友人と出くわす。「ある大物の教授」によると彼は「イスラム説教」の分野においては偉大なる大物になれる可能性があるが、結婚しているが夜中に女を求めている人間であるという話から「我々は仕事を選びそして愚かになって行く」という話にまで発展した。
(この間に、「ぼく」のおそらく空想である話が挿入されている。) 
 翌日、シンタと「ぼく」は先日ついた嘘通りに駅へでかけていった。駅のホームで10人くらい子供が居るこれから旅に出かける家族に出くわし、その家族は列車を待っている時間で弁当を開けることになった。ホームのベンチはにぎやかな食事のテーブルと化し、シンタはその様子をまるで乞食が食べ物の陳列物をじっと見つめるように雑誌を手にしたままみつめていた。すると子供のうちの一人と諍いを起こしたが、列車の入場とともに諍いは終わり、ふたりで人を待つふりを続けた。それからシンタが雑誌を読みふけるのを怒鳴りつけた「ぼく」が、シンタが本当は電報の中身を読んでいて、「ぼく」との芝居に付き合っていた事を知った。
 その日の午後、「ぼく」は医者に出かけた。(はっきりは書かれてはいないが、マラリアに以前かかった事があるようだ。)二時前にグナワン先生(旧名ゴー先生:中国系)に着き、診察を受ける。注射をしてもらっているときに「ぼく」が書いた記事について「どこに証拠があるのだ」「本当にたくさんの事が行われたが理解されていない」「ついにヌサンタラ・ビルが建ったが、人々はどこに車を停めるのか考えていやしない」とぶつぶつと言われる。いつもは抗生物質をもらえるのにカプセルと錠剤だけ処方され、薬を飲む気を失った。
 医者を後にして仕事場にでかけた「ぼく」は警備員のおやじさんに「待っている人がいる」と言われる。「男女二人で、バリから、大事な事」という情報で「ぼく」はあれこれ考え迷ったが、結局会うのをやめ、乗り合いバスで友人ゼンの家へ向かった。ゼンの家で睡眠をとってから6時に目が覚め、再び会社へ出かけた。「ぼく」はバリに関する巻頭記事を書かねばならなかった。’この島は独自に評価されるべき特殊なものを持っているという事だ。バリに当てはめようとする一般的な見方は問題を混乱させるだけなのに、それを計算に入れずに多くの人が分析を行ってきた。'と「ぼく」のバリ島に対する考えがあった。仕事をしていると警備員のおやじさんが「例の二人」から「預かりもの」として、「ぼく」の母親からのもう腐ってしまった贈り物と手紙を渡される。手紙の内容は一人の老人の息子に対するありきたりな心情を吐露したもので、手紙の最後の方には彼女がどういった葬式を望んでいるかということが記されていた。’母は自分の死ぬ事を話して僕を当惑させると、僕はおっぱいをいじりながらいつも寂しさに身を焼かれる思いがしたものだ'...警備員のおやじさんが唐突に自分の家族の暮らしについて話し始め、「ぼく」は彼の話を聞くまいと故郷の事を思い出しバリ島の事を思い出した。すると火事が起こり、事務所にいた他の編集記者はそこへかけつけ、事務所には警備員と「ぼく」の二人が残され、(おじさんが下の階へ行き)そして一人きりになった。ひとりになってから「ぼく」は発熱し、事務所で汗をかこうとするなど熱を下げる努力をした。
 翌朝、警備員のおじさんに注意深く体を見てもらい、「あせもだ」と断言されたが「ぼく」は伝染病だと信じて病まなかった。家に帰り、手伝いのおばさんとシンタを遠ざけるようにしてベッドに入った。眠っている間に亡き父親について思い出し、「自分の土地を守るためにぼくを犠牲にした」「父親に恥をかかせないように僕が結婚に同意していない事を隠してある人と結婚させられた」ことを思い出す。昼過ぎにシンタが扉にやってきて、「ぼく」が10年前に作った出生届、『彼女、シンタ・フィブリナはロサというなの女性との間にもうけた私の実子である』と書かれたものを差し出した。いつもシンタに『母は亡くなった』と言い聞かせていたので、心の中で作り話にとりかかった。
 夕方になり友人の医者シュバに生き返らせてもらった。原因はアレルギーだった。リンゴを買って帰りドミノをしながらお手伝いのおばさんとシンタと賭け事をして楽しいときを過ごし、そして寝た。目が覚めたときにはもう夕方になっていた。お湯で水浴びをしたあとに、「ぼく」はシンタに作り話の母親像について話す。シンタはその話を聞いて立ち上がり自分の部屋へ戻って行った。「ぼく」はシンタの母親、つまり今は華人と結婚している自分の姪に対するよくない思いを考えた。そしてシンタが戻って、「手紙をもらった」と告白をした。その手紙はシンタの学校の先生からの「ある誠実な告白」であった。
 翌朝「ぼく」は「時がバリを撫ぜていく」という、予定していた長い記事を書いた。「バリのキャンペーンがいくつかの事件をごまかしていた。例えばスガラ・アリット寺院の紛争。政府はホテル建設の必要性から寺院の移転を支持する態度を取っていた」「サンセットを楽しもうとするクタに転がるヒッピーたちの増加」「デンパサールにおける売春婦の増加」「手工業に道を譲った事による芸術の質の低下」「観光客が自分の目で見る前にしろ見た後にしろ、彼らが抱くそのイメージは、バリがデンパサールとウブッドだけではなく、そして数々の儀礼と幻想的でエネルギッシュな踊りだけではないのだということをわずかに忘れたものになっているのが普通である」
最後の文章を打ち終わった後夕方になっていた。編集長に記事を出し、休暇の前借りをもらった。編集長が今度結婚する旨からきいたあとに、結婚についてあれこれ考えた。すると警備員のおじさんのミスで例の客二人に会うはめになる。
 その二人の客は「ぼく」が憎んでいるふたりだった。シンタの母親スリとその夫で、自分たちは子供ができないのでシンタを養いたいという話だった。「ぼく」はそれに憤怒し、机をばんばんたたく等暴れた。編集長があれこれ訪ねたとき、友人のゼンが「母親が亡くなったんです...」と答えるのが聞こえた。
 ヘリチャでの帰宅途中に、「ぼく」は自分がシンタにしてきたこと、シンタは母親と一緒に居るのがいいのではないか、シンタは自分にとってなんなのだと自問自答する。「シンタなしではお前は労働意欲を起こさせるものなど何もない」「お前はシンタの利益を考えるふりをして、自分の利益のためにやっているんだ」
 帰宅後、シンタに母親と一緒に住むかという話を聞いてみる。するとシンタは泣き出し、家政婦のおばさんからシンタの母親がシンタを訪ねにきたという事を知ってふたたび怒り狂った。
 (この間に、精神的に疲れきった「ぼく」がロサに甘える空想が挿入される。)
 夜になり「ぼく」はいきつけの店へ出かけた。店の主人に「ぼくは正気じゃないのか」と問いかけ、ロサについて話した。すると店の一同にはやし立てられ、彼らは本当に僕の友達なのか」と不安に駆られ、店をあとにした。友達(おそらくゼン)に出くわし、その友達は「子供が生まれた」と大喜びで、「いなかに電報をうつ」と嬉しそうに言った。電報は一人の子供が元気に生まれ喜びをもたらすのに電報を必要とした。また何千人もの人間の死もまた電報を生み出す。そんなことを「ぼく」は考えながら行きつけの店へ戻っていった。
 そこにはシンタが電報を持って眠って待っていた。電報を読み、シンタと一緒に家路についた。家に入るとシンタが「パパ」と呼んだ。行きつけの店にシンタが電報を持ってきたというのは幻だった。不安になり何度もシンタに電報が届いたかたずねた。
 シンタを川の水を見てみようと橋の端まで誘った。船の上のブギス人が子供が生まれたという知らせを受け取る場面を「僕」は見た。しかし、それも幻だった。家路に着き、家が見え、中に誰かいるように見えた。「ぼく」はロサだと思ったが、シンタは「お手伝いのおばさん」だと言い切った。いらいらし、シンタを振り切り「ぼく」はまた橋へともどり物思いにふけった。自分の過去を客観的に考え、気づくととなりに友達がいた。友達は子供が死産だった旨を伝えた。友達は泣き続け、「家まで付き合ってくれ」というので「ぼく」は友達に付き合った。友達の家にいくと奥さんがはちきれんばかりのおなかをかかえて友達を引き取った。(友達は子供が心配であらゆる妄想をしたのだと思う)
 翌日、いつもどおりの一日が過ぎていった。お手伝いのおばさんに一ヶ月家を空ける旨を伝えた。夜8時に母が亡くなった電報を受け取り、シンタと「僕」は予定通りことをすすめた。「一人の人間が死に、他の者は生き続ける。あるとき、人は僕らのために電報を打つ。その一方他の者は生き続けなければならない。」