みきほ氏ブログ

川崎在住、トリリンガル。日本にくる外国人観光客事情と対応術、インドネシア・マレーシアまわりのことを中心に書いています

自分の中で祖母の死をうまく処理できないという話

先週金曜日、母方の祖母が他界した。祖母は去年の9月から危篤と小康状態を繰り返していた。母の日の13日に、母に連れられ、葬儀場で再会した。

最後に会ったのは結婚前の2014年ごろ、入居する特養ホームで。今回と同じように、母に連れられた。その時、すでに祖母はわたしをわたしと認識していなくて、わたしをみて、母や叔母やわたしのしらない親類の名前を呼んだ。母に「お前に娘がいたのは、なんとなく覚えているような、、」と南東北・北関東っぽいなまりで話した。

 

その時点で、おばあちゃんの中に私はもういなかった。忘れ去られていた。

 

わたしの中でも、おばあちゃんは「死んだ」。もう私に浴衣を作ってくれることはないし、「んだら、作ってやっぺ」と、あのめちゃくちゃおいしいコロッケを揚げてくれることも、もう無い。新幹線のことを「汽車」とする奇妙な会話を繰り広げることはないし、掘りごたつの机の上に座って、照明を消した暗闇の中、巨人戦をブツブツと観戦するあの姿を見ることもない。兄のあせもにキュウリをぺたぺたと張り込むことも、大根おろしと蜂蜜を混ぜたものを強要することも、のどにネギを巻いてくることもない。「お茶のめ」と無限にお茶が出てくることも、やたらおいしい白みそのわかめの味噌汁(当時の私にとって白みそはすごく珍しかった)をよそってくれることもない。ストーブで焼いた干し芋(めちゃくちゃうまい)を「食え」と無限に渡してくれることもない。あのやたらうまい、ちょっとしょっぱい、豆が入った餅ももう作ってくれない。こう書くと食べ物のことばかりで驚くけれど、子どもを産んで、祖父母というのはやたらと子どもに食べ物を与えたがるということがわかったので、こんな記憶ばかりなのは栓なしか。

 

そんなことは、おばあちゃんが施設に入った瞬間、すでにわかっていたはずだ。わたしのなかのおばあちゃんはもういなくなった。私の中で、おばあちゃんは「死んだ」、と思っていた。

なのに、実体が灰と骨になって、思った以上に感情の揺れがあって、自分で驚いている。自分の中で、祖母の死をうまく処理できない。

 

祖母の遺影は母そっくりで、死に顔も母の寝顔そっくりだった。ついでに言うと、母と私はそっくりなので、祖母の死に顔を見て「私もこんな顔で死ぬんだろうな」と思った。祖母の死に顔はきれいだった。

 

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「死んでいない祖母」と最後に会話したのは、3・11の日だった。その日の夜の便でジャカルタから一時帰国をする予定だった。午前中、荷造りをしていて、昼過ぎ、ツイッター上が騒がしくなった。どうもフクシマで大きな揺れがあった、ということだった。すぐに祖母の家に電話した。(その時はまだ施設に入る前で、家にいた)国際電話だったからか、地震直後だったからか、つながった。「みきちゃんか。なに、日本帰ったっぺか?」「ううん、国際電話だよ。今日帰るよ。地震あったんでしょ、おばあちゃんだいじょうぶ?食器とかたんすとか倒れてない?」「大きい揺れがあったけど、何も倒れてね。だいじょうぶっぱい。いや、びっくりだった」そんなような話をした。少なくとも、この時までは、おばあちゃんの中で私は生きていて、海外でなんかやってる孫、というふうに認識してくれていたよなあ。

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祖父ががんで死んだときは、わたしは交換留学生としてマレーシアにいたので、葬儀にも四十九日にも行けなかった。祖母の葬儀には参列できてよかった。