インターネッツは視野を狭くする
もう日本を離れてインドネシア・ジャカルタ生活をはじめて一年九カ月が経とうとしてる。日本に帰る時期を考え始めているけど、正直日本の社会に入り込める自信がない。どこでも乗り降りできるのにたった20円でどこまでも行ける、そのうえ突然流しの演奏家が乗り込んで歌を数曲熱唱して降りる公共バス「コパジャ」じゃない生活というのも寂しいと思う。(コパジャについて→http://d.hatena.ne.jp/m_h/20110901/1314897233)
そもそも私は、約2年前に就活がうまくいかなくて、おまえなんか社会の役にたたないと言われた気がして、そんな自分が悔しくて、縁あって今の就職先を見つけて「日本が世界で生き残れるように、役に立つ人材になりたい!」と思って大学卒業と同時に祖国を飛び出してきたけど、そんな人材にはなれていないし、なれそうな気配もない。むしろ今のまま帰ってもなんのクソの役にも立たない気がする。確かに昔よりはやれることが増えたし、知識を得たけれども、まだまだだめだなあ、と思う。出発時に想い描いていた自分像になれなかったから「日本でやってけないんじゃないか」とも思っていたけど、不安の源はどうもそうじゃないと思えてきた。
インターネットが伝える日本の社会のありさまだ。ワールドワイドウェブ上の、私が集める偏ったジャパン情報が、日本社会復帰を不安にさせる。
インターネットで、ツイッターで、ソーシャルネットワークで世界は確かに開けた。だけど、その「開けた」という過信が、かえって世界を狭くする。インターネットで日本に住んでいる日本人とつながっているから、自分はいまの日本のトレンドをわかってるつもりでいた。少なくとも流れをなんとなく感じていると自覚していた。だけど、それは過信だった。
簡単に言うと、私がSNSやらツイッターでつながっているのは、インターネットをやっている人だけである。でも実際には、日本人のほとんどはインターネットやツイッターやSNSをやっていない。もしまわりのひとがみんなSNSを駆使している人ばかりだったら*1、自分の見えない社会もまるで「そう」であるかのように錯覚してしまうが、フェイスブックで母校の公立中学校のクラスメートの名前を入力しまくったところ、百四十人中フェイスブックをやっているとみられるのは二十人程度だった。地域差はあるかもしれないが、そんなもんなんだ。ユーチューブにニコニコ動画に時間を費やす人も多いだろうけど、そこまでみんなソーシャルソーシャルしていない。
そもそもスマートフォンを使いこなせなくて困ってる人もかなり多いんじゃないだろうか。先週の日経日曜版の日本国内のスマートフォン人気機種ランキングで「まわりに利用者が多いiPhoneがダントツの一番人気。わからないことがあっても、すぐまわりの人に聞けるのも要因の一つか」と分析が書かれているのを読んで、ユーザーがガジェットに遊ばれていなあ、とぼんやり思った。インドネシアの人は(日差しが照りつける中何時間も並んで)ぶっ倒れて、そのうえ借金してまで最新のスマートフォンを手に入れようとしてるのに、日本人は最新のスマートフォンに手を出すのにすっごく躊躇してるのがなんだかおもしろい。そんなスマートフォンにびくびくしてる日本人に向けて、デジタルデバイス+ツールハウツービジネスが盛り上がっている(ようにみえる)。フェイスブック企業戦略コンサルトかまさにそんなかんじ。わたしも帰国してしばらくニート生活するとしたら、実家の田舎のスーパーに「スマートフォンの使い方教えます! 一回3000円! わからないことなんでも聞いてください!」とか「パソコンのスカイプのセッティングします!一回4000円! お孫さんと無料でテレビ電話しましょう! 気軽に電話ください!」という張り紙を張って「金を得ること」ができるんじゃないだろうか。
話はそれたが、私は要するに、「原発怖い!」「放射能怖いからジャカルタに移住しなきゃいけなくなったんです!!」って連発するひとや、ドヤガオで違法なことしたっていう発言が並ぶ自分のタイムライン(RT含む)から、「うわーこんな人ばっかいる日本でやってけんのかなワタシ」って不安に思った次第でございます。
インターネットこわい。情報広げているという、社会とつながってるっていう感覚が怖い。ソーシャルネットワーキングサイトは人と人をつなぐけど、人と社会をつないでいるっていったら、必ずしもそうじゃないなー。人と人をつないでそこの独特の社会を作ってる。その社会は、現実の社会と違う、と信じたい。