みきほ氏ブログ

川崎在住、トリリンガル。日本にくる外国人観光客事情と対応術、インドネシア・マレーシアまわりのことを中心に書いています

クーリエジャポンと「精神的向上心」

1年ちょっとくらい前から、高校のときの親友にすすめられて読み始めたクーリエ・ジャポン。今月はお値段がいつもより張ったせいか読み応えがすっごくよい。現在進行形で読んでいる。
今回は中田が大活躍です。

中田は、引退してからずっと旅を続けているそうです。うらやましいというほかない。
クーリエをよむと、いかに私たちがメディアがつくった虚像の世界をみていることがわかる。メディアがつくった虚像の世界を教科書にのせちゃって、学生のうちからずっと「そうなんだ」ってインプリンティングされているから、メディアの報道する世界を何の違和感も感じないで受け取ってしまう。

私は名古屋の新聞の学生がつくるページというのを高校の頃からやっていて、(実際高校の頃はそんなにたいした記事を書くことはなかったけれども)大学生になった今、そのメディアが報じる虚像の世界から離れた事実を察知し、うまいこと書く学生がいることを知っている。また、海外へ赴いて、海外のメディアが報じる日本人の虚像をすごいインパクトでぶちこわし続ける人もいる。私も東南アジアにいくけれども、そういう体験、感じ方、記事はかけない。いや、そういう文章はかけない。どっちかっていうと、よくも悪くも甘い、よくもわるくもフェミフェミした文章、ていうかテーマそのものもフェミフェミしている。*1やっぱり甘いな。それが悪いとか、いいとか、パワーがないとかあるとか、読み応えがないとかあるとか、そういうのじゃない。なんだか不服なんだよね。しかし、これがわたしの体験と見聞と文章で、身の丈そのものなんだから、受け入れなくてなくてはならないし、受け入れている。でも不服。彼らのようになれるわけないし、異国を闊歩するにあたってジェンダーは重い。あと私は病気もネック。
かといってあきらめるわけにはいかない。記事を書く機会はまだまだある。最後の記事を書くときには、そのときは不服だろう、けれどもいまの自分がみて納得いくものがかけるといい。


精神的に向上心のないやつは馬鹿だ、とある有名な小説でのある有名な名言があります。
ひとは自分の現状に満足したら、あるいはトップだと自覚したら、にんげんとしてストップしてしまう。
「サッカーしか知らない人間になりたくない」そういって中田はサッカーの世界から身をひいた。そんで、今回のクーリエで、中田が「こんな大したことないぼく」って自分のことを言ってたんですよ。「国際紛争をこれで解決しちゃってもいいくらい世界でいちばんのスポーツ」のサッカー選手として取材される側であるくらいということを理解し、そういう立場として何年もサッカー業界にいて、それなりの活躍をして。なのに、「こんな大したことないぼく」。精神的な向上心の固まりだよ、中田。かっこいーなー!

でも、この精神的な向上心を持っていた人って、そうじゃなさそうな人でもあてはまるんだとおもう。たとえば、藤原道長。わたしは古典学をやってるわけじゃないのでなんともいえないのだが、藤原道長は決してあの詩のとおり、この世私の思い通りにならないことなどないのだよ、と思っていた訳じゃなく、そうじゃないからわざわざあの歌をよんだんじゃないかって思うんです。まだまだだ、って思ってたから、詰めが甘いとかおもってたから、わざわざあの歌を残したんじゃないかなって思うんです。

精神的向上心は誰にでも持てる訳じゃない。持てる余裕がない人、そういう性格の人、持つ以前に問題がある人。そういう人はにんげんとしておもろない。(おもろなくたって、ぜんぜん生きていけるよ。)。また、口では「まだまだ」といってるけども、内心では「超かんぺき!」「トップだし」と思ってる人なんかは、もう残念を越えたところにいる。over the ZANNEN.いやbeyond the ZANNEN.
過去の自分を含めて。

この向上心が持てる余裕のあるうちは、ぜったい手放してはいけないものだ。なるべく長く持つべきものだ。


そんな話。

*1:たとえば、インドでなにが一番問題でしょう、ってなると、貧富の差とか、資源問題とか、核を巡る紛争とか、そういうのよりも「嫁の持参金を巡っての殺人」(ダウリー)とか、家族問題/女性問題に目がいくところがフェミフェミしてると思う。